「葬儀の歴史 3」
寒い日が続いているかと思えば、急に暖かい日中になったりと不安定な天候が多いですが
皆様 体調など崩されてはいないでしょうか?
今回も私のコラムは葬儀の歴史について語って参りますのでお付き合い頂ければと思います。
弥生時代には石柱の上に平らな石をのせて、その下に遺体を埋葬した「支石墓」が現れます。
また遺体を納める甕棺(かめかん)が使われるようになったと言われます。
そして穴を掘って作った墓の周辺に方形の溝をめぐらす形式の「方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)」も見られるようになったそうです。
3世紀頃からは豪族の大きな墳墓、古墳が作られるようになります。 その形から円墳、方墳、前方後円墳、前方後方墳、上円下方墳、双方中円墳などと分類されます。
また積石塚と呼ばれる墓の上に土の代わりに石を積み上げた高塚もあったそうです。
5世紀には応仁陵や仁徳陵のような巨大な古墳も作られました。
それらの古墳の中には石室が作られ、遺体は棺に納め、人物や動物をかたどった埴輪や様々な用具が副葬品として添えてあったのです。
この古墳文化は3世紀から7世紀まで続きます。 前期は自然の丘陵や尾根を利用したものが多く、中期では平野部に盛土をし、周囲に濠(ほり)をめぐらせた巨大なもの、そして後期になると横穴式石室をもった小さな古墳が作られたのが特徴です。
古墳に代表される手厚く葬った葬法を「厚葬」といいますが、これは有力者や豪族、天皇家といった人々のものでした。 この厚葬も儒教文化が伝来すると6世紀頃から次第に少なくなっていったとされます。
一方、民衆の場合はどうだったのでしょうか? 「いろいろな所に埋めるのではなく、場所を決めて埋葬するように」といった資料があることから、土葬以外にも死体遺棄に近い形で、あちこちに葬られていた姿が想像できます。
しかしこれは中世になっても変わっていなかったようで、「今昔物語」には平安京の正門、羅生門の上に遺体が遺棄された様子が描かれたり、「八幡愚童訓」によると、辻に野捨てにされた死体を犬などが食べる様子が書かれているそうです。 ですので、山の麓や川原などに死骸や白骨が捨てられていることは珍しいことでは無かったようです。
このように長い間、墓を作ることができたのは上層階級に限られ、民衆には鎮めなくてはならない霊魂の存在など認められていなかったかのように思われます。
「非業の死を遂げた人の霊は祟りをなす」として、その鎮魂や慰霊が盛んに行われるようになるのは奈良時代の末期からのようです。
今回は以上となります、教科書に出てくるような単語がいろいろと出てきて眠くなったかもしれませんが、お付き合い頂きありがとうございました。
かずやコスメディア 山路
過去の「葬儀の歴史」は下記リンクより
「葬儀の歴史」
/https://www.kazuya-group.com/news/column/2455/
「葬儀の歴史2」